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1月 草屋根とは直接関係ないが、草屋根の会を主催される、建築家・前田由利さんは関西大学OBで、関西大学建築学科OBの「千里山建築会」の幹事もされています。 以前から、草屋根の会と千里山建築会のタイアップで、建築家・村野藤吾の作品を巡っていました。 今回、尼崎市にある、旧大庄村役場と、尼崎市庁舎を尼崎市の学芸員さんに案内していただき見学できることになりました。 午後からの見学ですねー。 ユニチカ記念館は、(一社)ユニチカ修斉会が管理していた、ユニチカの前身である尼崎紡績の本社事務所として建設され、後にさまざまな資料を保管する記念館でした。 ユニチカ記念館及びその所蔵物は、近代化産業遺産(『東洋のマンチェスター』大阪と西日本各地における綿産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群)のうち尼崎市の綿産業関連遺産の構成遺産に認定されています。 以前は一般見学をしていたなぁと記憶していたのですが、2019年(令和元年)に老朽化のため閉鎖され、一次は解体の危機に至りましたが、現在は尼崎市が管理をしています。 そのため、今は年に2回くらいは内部の見学会があるようですが、一般公開には至っていません。 尼崎市の学芸員さんにご説明いただけるのなら、内部見学とかもできるのでは・・・ダメ元で提案してみると、なんと可能ということに! そんなわけで午前はユニチカ記念館見学、午後は村野藤吾建築の見学となりました。 5月31日 -08:00- ゆっくり目に目覚めます。 最近、仕事で疲れがたまっているなぁ。 準備しよう。 -08:45- では行きますか。 てくてく歩いて最寄りの阪急・小林駅へ。 -08:55- 阪急・小林駅から電車に乗ります。 |
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小林ー |
阪急・西宮北口駅で今津方面に乗り換えます。 -09:20- 阪急・今津駅で一旦降りて、阪神に乗り換えます。 |
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阪神の各駅停車 |
-09:45- 阪神・大物駅で降ります。 大物駅は、今年オープンした、阪神タイガースの2軍球場、ゼロカーボンベースボールパーク(野球場の名前は「日鉄鋼板SGLスタジアム尼崎」)の最寄り駅です。 |
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おおーいいねー | ゼロカーボンベースボールパーク | 未来をずっと青空にする球場 |
前田由利さんが既に来られていますね。 おはようございますー。 時間があれば近くで見たいなぁと思いましたが、ちょっと無理そう。 二軍の試合があるのか、ユニフォーム着た方が球場の方に向かっていました。 ちなみに、以前の鳴尾浜の二軍球場の収容人数は500人でしたが、今回のSGLスタジアムは4,000人だそうです。 この球場は、グラウンドサイズ、方位、内外野の黒土・天然芝、LEDを使用した照明設備など、甲子園球場と同様の規格や設備を可能な限り再現していて、1軍に上がっても甲子園球場に対応できやすいように配慮されているそうです。 |
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SGLスタジアムに続く道 |
-10:00- 集合時間です。 皆さんお集まりになりましたね。 では向かいましょう。 |
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出発ー |
てくてく歩いて行きます。 途中、SGLスタジアムが見えました。さすがプロの球場だなぁ。外野のネットが高い! |
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おおー |
一般的には学校のグラウンドなどは10〜20mくらいの防球ネットですが、野球場では20〜40mの高さのようです。 しかしSGLスタジアムでは、阪神の佐藤輝明選手が2021年(令和3年)に推定飛距離140mの場外ホームランを横浜スタジアムで放ったことから、防球ネットの高さを55mとしたそうです。 すぐそばを阪神電鉄が通りますしね。安全優先です。 -10:10- 「ユニチカ記念館(旧尼崎紡績本社事務所)」にやってきました。 |
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レンガ造のステキな建物 | 10時〜16時半のみ敷地開放 |
敷地に入り、外観を見ながら南側の正面玄関に向かいます。 |
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室外機がちょっと残念 | 当時からするとかなりハイレベルな建物 | 面格子あります |
外部からの見学用にいろいろ資料がフェンスに備えられていました。 |
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説明1 | 説明2 |
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説明3 | 説明4 |
正面玄関には尼崎市の学芸員の桃谷さんが待ち構えてくださっていました。 前田由利さんのご挨拶で、見学会開始です。 |
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よろしくお願いしますー | 前田由利さん | 学芸員の桃谷さん |
桃谷さんからご説明をいただきます。 ユニチカ記念館は、1900年(明治33年)に前身である尼崎紡績の本社事務所として建設されました。 現在では、尼崎市内でのレンガ造りの建築物、および洋風建築では最古のものとなるそうです。 2階建レンガ造りですが、屋根は瓦ということです。 レンガは、フランス積みとイギリス積みがあります。 フランス積みは、長手(長い面)と小口(短い面)を交互に並べていく方式です。 イギリス積みは、レンガの長手だけの段、小口だけの段を交互に積み上げる方式です。 イギリス積みは明治時代に日本へ伝わってきたとされています。明治初期のお雇い外国人の約半数がイギリス人で、全数の4割強は工部省(近代国家のための社会基盤整備を推進した中央官庁)であたため、近代化・工業化にはイギリス色が強いのです。 ユニチカ記念館も小口が並ぶイギリス積みです。 基礎部分は黒レンガになっています。焼過レンガと言われ、普通のレンガよりも良質の粘土を高温で焼き過ぎになるくらいに焼いた煉瓦で吸水性が少なく摩滅に強いと言われています。 なので、基礎部を強くしたいということなのでしょう。 |
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正面です | 暖炉の煙突 | 2階部分の窓 |
玄関横にも黒いレンガ部分がありますが、こちらはデザインでしょうね。 |
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デザインで黒いの |
階の区切りとして、モルタルのベルトが水平に入っています。 これは意匠として入れているようです。 正面から見て右側に平屋の部分がありますが、1902年(明治35年)に描かれた絵にはないそうです。よって、その後に増築されたものだということです。 エントランスの庇も昭和のはじめの絵(写真 )では今とは違うものがついていることが確認されています。 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災でも大きな被害はなかったそうです。 北側に管理人さんの住居があったそうで、その人が翌朝見たところ大きな被害がなかったということです。ただ、次の地震が来たらどうかは保障できていません。 庇の上の2階の窓は、黒レンガのスリットを潰して、後に窓を追加したと言うのがわかります。 |
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フロアを強調するデザイン | 2階のスリットは窓に | 屋根瓦が少し見えます |
設計者は不明ですが、イギリス人ではないとのこと。 1888年(明治21年)に、尼崎紡績の尼崎工場の設計を行ったのは、茂 庄五郎でした。ただ、それより10年後の本社事務所の設計もそうであったかの記録はないそうです。 施工は錢高組で、錢高組が初めて独力で手掛けた工事だそうです。こちらは、錢高組のHPにも記載されています。 1960年(昭和35年)に、事務所としての役割を終え、ユニチカ記念館として開館したとのことです。 では、中に入り引き続きお話を伺うことに。 |
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中に入りますよ |
玄関横に定礎が転がっていますが、これはここのではなく、どこかの建物のもので不明だそうです。 |
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どこの定礎だか | 近代化産業遺産 |
レンガは国産のものです。 レンガには、製作した会社の刻印が刻まれているそうで、それでどこがつくったかわかるそうです。 花びらの刻印があるのが、堺煉瓦というところだそうです。 増築部は×印の刻印があり、こちらは岸和田煉瓦というところです。 |
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花びら刻印の堺煉瓦 | ×刻印の岸和田煉瓦 |
では中へ。 |
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ユニチカ記念館 | 入って左手 |
中に入り、右手の会議室へ。 こちらは元は展示室です。 東京オリンピックのユニフォームがありますね。 1964年(昭和39年)の東京オリンピックで、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーボールチームの母体が、ニチボー貝塚で、その監督の大松博文氏のユニフォームだそうです。 |
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普通に前のオリンピックのユニフォームが置かれている | ニチボーのユニフォーム |
桃谷さんの説明をお聞きします。 1889年(明治22年)にその後ユニチカとなる尼崎紡績が創業したのは、尼崎は江戸時代は藩庁が置かれた城下町でしたが、明治維新後は衰退し、街の活性化の起爆剤として当時最先端の工業であった紡績業を誘致したということだそうで、その後尼崎は重工業の街となりましたが、工業都市尼崎の礎となったのが尼崎紡績ということです。 |
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お願いしますー | 創業当時 |
ちなみに、固定電話の市外局番、大阪は06ですが、兵庫県の阪神間は、伊丹市は0727、西宮市は0798とかですが、なぜか尼崎市は大阪と同じ06。 これは、尼崎紡績創業時に、商都として発展していた大阪にある電話回線が尼崎にはなく、大阪市内から本社までの13kmを自費で回線を引き、それを大阪電話交換局(今で言うNTT)に寄付して電話を使えるようにしたのに端を発します。 その後、電話が普及していきますが、尼崎にも電話局ができると、尼崎と大阪の通話料が別電話局となるため高くなるので、尼崎商工会議所が中心となり、尼崎全域を大阪電話局管内に編入を要望し、協力金として当時の価格で約2億円を負担し、市外局番整備のタイミングで06が割り当てられ、通話料も1回14円から7円になり、尼崎の産業経済活動に大きく貢献したそうです。 傍を流れるのは左門殿川、架かる橋は今は姿を変えましたが、当時から辰巳橋でした。 尼崎紡績は、大正時代には大日本紡績となり、用地を拡大し工事により工場は拡張。 ユニチカ記念館の東側は今は尼崎市の下水処理場にになりましたが、長屋が並び、それは女工さんの寄宿舎だったそうです。 「あゝ野麦峠」って映画がありましたが、それでもわかるように、紡績業は機械かが進んでいるとはいえ、それを支えていたのは過酷な労働条件で働いていた女工さんたちでした。 その北側に、現在工場が建っているあたりには社員社宅があり、大正時代に拡張された大工場跡には、現在、阪神タイガースのファーム球場である、ゼロカーボンベースボールパークがあります。 |
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尼崎紡績株式会社全景 | 大日本紡績株式会社尼崎工場 | ユニチカ記念館案内図 |
全体で6万坪ってことですから、20万m2弱。広大ですねー。 当時は、東洋紡、鐘紡を抜いて日本一の企業となっていたそうですが、1945年(昭和20年)の空襲で9割方が焼けてしまい、残ったのはユニチカ記念館である本社事務所だけだったそうです。 そして、戦後はこの地で紡績工場は復興されず、その土地は尼崎市が買い取ったとのこと。 工業都市・尼崎の原点の場所です。 ここユニチカ記念館の沿革としては、大日本紡績となった後事務所としては使われず、1931年(昭和6年)には尼崎商工会議所の前身である尼崎商工共和会の事務所として貸し出し、「協和会館」として使われました。 その後、1955年(昭和30年)に尼崎築港事業を行った 、尼崎港工事事務所に、そして1959年(昭和34年)にはユニチカの前身である、大日本紡績(1964年(昭和39年)からはニチボー)の記念館となり、1969年(昭和44年)にニチボーと日本レイヨンの合併によりユニチカとなってからは、2019年(令和元年)までユニチカ記念館として使われてきました。 2020年(令和2年)にユニチカが突如記念館を処分するとの方針を発表し、その後、日本建築学会の会員(個人)からの請願により、建物と展示物は市に寄贈、土地は市が買い取るということで現在に至っています。 尼崎市は引き取ったものの、耐震性の問題や、阪神・大物駅からも少し歩かなければならないなどのリッチ条件により、商業的な利活用は難しく、見学会を年に2回、その他今回のような随時の見学会を開催しているとのことです。 部屋割は当初から変わっていないですが、現在いる会議室は壁が追加されたそうです。 ということで、15分ほど館内自由見学です。 |
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2階への階段 | 玄関 |
玉座のある展示室へ。 昭和天皇の玉座の展示がありますが、昭和天皇がこちらにこられた記録はないそうです。ユニチカ合併前の日本レイヨン米子工場にお立ち寄りにはなられた記録があるそうなので、そこのものを持ってきたのでは?ということです。 |
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玉座もありますね | 暖炉 | 米子から持ってきた疑惑 |
2階に行きますか。 |
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天井の装飾 | 高窓 |
大きなタペストリーがあるなぁと思ったら、1974年(昭和49年)〜1988年(昭和63年)に新歌舞伎座で使われていた緞帳の一部でした。 |
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高さ4.8m でかい | 解説 |
2階へと上がります。 |
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2階へ | 上から |
2階の元展示室の収蔵物は、放置されていて痛みがひどく、歴史的に価値のあるものから専門の修復業者により修復して行っているそうです。 収蔵物は、尼崎城の近くにある、旧・尼崎市立高等女学校を活用した尼崎市歴史博物館に収蔵されているそうです。 |
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というわけでショーケースがあるだけ |
元、ニチボー資料の展示室へ。 |
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ニチボー貝塚バレーボールブのトロフィー | 暖炉ですね |
この展示室には、列車のヘッドマークがあります。 紡績は、綿が大量に舞う仕事で、肺病・結核などになりやすかったと言います。 そのため、ユニチカ(当時は大日本紡績)が、京都府山崎に青葉荘という結核療養所を所持していました。 1951年(昭和26年)秋に、この療養所に入院する患者が、何気なく病室の外を走る「特急はと」に手を振ったところ、食堂車の従業員や給仕を行う、通称「はとガール」が手を振り返したとのこと。 これがいつのまにか日課になって8年間、午後0時50分45秒前後、雨の日も風の日も続けられたそうです。 ある日、「元気でね」という手紙を食材のジャガイモに結んで投げたことで文通に発展。その後、はとガールたちは青葉荘を慰問し、プレゼントを交換するようにもなったそうです。 昭和天皇が1953年(昭和28年)行幸の際にお召し列車から青葉荘をご覧になって歌を詠まれました。 「山崎に病養ふ人みれば におえる花も美しからず」 この歌は後に療養所に届けられています。 しかし「はと」乗務員と療養所の交流は、1960年(昭和35年)の「はと」廃止により、はとガールの乗務を廃止したため終わりを告げました。 「はと」の最終日、療養所に「はとよ、ありがとう」の看板が掲げられ150羽の鳩と風船が空に舞ったそうです。 そんなわけで、廃止となった特急はとのヘッドマークが大日本紡績に寄贈されたとのことです。 |
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はと | 宮原機関区(車両基地)の検修(技術員)一同から青葉荘の方々への手紙 |
窓は木製なので、経年劣化の痛みがかなり激しいです。 |
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ありゃー |
貴賓室みたいな展示室もありました。 |
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展示室とある | 応接セット |
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天井のデザインがいいね | ここにも暖炉 |
どうやらこの部屋は来客用の部屋だったみたいですね。 廊下には、ユニチカ記念館時代の建物説明がありました。 |
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1階の部屋は確かに今は壁増えているなぁ | 構造体の説明 |
廊下の角に何か開口部がありました。 あれは何か、桃谷さんに聞いてみたら、屋上へ上がる点検口だそうです。 梯子であそこまあがるそうですよ。 |
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今の感覚なら目立たないような仕上げにするけどなぁ |
1階に戻ります。 |
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階段 | 1段目はデザイン凝っています |
最後に、ユニチカ歴代マスコットガールのポスター展示と、世界各地の貴重なテキスタイル資料ですが、これは大部分が残されているようでした。 |
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ずらり | 初代は1974年(昭和49年)の風吹ジュンさんですね |
それよりも、同じ部屋にあるテクスチャーとかの資料がすごい!無造作に置かれていますが、こういうのを復刻してだしてくれたらいいのになぁ。 まぁ、所蔵していた資料だから、ユニチカ発行のものではないですし。 |
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ドイツ語かぁ | うわぁステキ | Paul Grohmannってドイツのドレスデンの人のテクスチャ―集みたい |
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きれい | 当時はドイツが最先端だったのかなぁ | おー |
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このへんはイタリアか | 年代記かな | 当時のファッション |
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これはCMポスター集かな | ヘルメスのタイプライター | ゆっくり見てみたい |
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無造作に置かれているけど | 大島紬や琉球紅型とかも |
なお、ユニチカは成長事業である高分子事業(フィルム、樹脂、不織布)に重点投下しているので繊維事業からは今年の8月までをめどに完全撤退することを表明しています。 |
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ユニチカの年表 | 不動産業もしていたのでしょうか |
トイレも行ってみましたが、これは当初からトイレだったのかなぁ。 結構床を下げていましたね。 |
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トイレ |
最初の部屋に戻ってきました。 |
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PL学園が見学 桑田 清原時代 |
1964年(昭和39年)には外の塀は煉瓦塀 | 1959年(昭和34年)日紡記念館開館 |
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昭和30年代は尼崎港工事事務所時代 | 昭和6〜8年頃の尼崎商工共和会の協和開館時代 | 1932年(昭和7年)頃の航空写真 |
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大正後期の大日本紡績尼崎工場 | 明治末期から大正初期の尼崎紡績本社工場 | 暖炉です |
寄贈された資料の復元状況も。 |
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なかなか大変 |
東京オリンピック関係の資料もたくさんあります。 |
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バレーボールチームのサイン |
見学終了。 外に出ます。 正面の門扉はオリジナルのままではないか?と言われているそうですが、それなら戦時中の金属供出を免れているのは不思議なので、戦後に同じものを復興させたのではないかとのことです。 それにしても、錆防止などで塗ったとは思うのですが、なぜに青なのだろう・・・。 |
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青はなぁ |
煉瓦塀がありますが、これは当初からあったものではないようです。その理由は、レンガは明治期のものと大正期のものではサイズが違うからで、JISの前身である、日本標準規格が1921年(大正10年)に制定され、煉瓦塀のレンガは規格のものだそうです。 煉瓦塀に危険性があったので、撤去してフェンスにしたのですが、その時に建築学会(個人)からオリジナルのものを潰すとは!とクレームがあったそうです。 しかし、オリジナルは土塀で、それをリニューアルして煉瓦塀にしたのは前述の通り明らかでしたね。 ということで、旧ユニチカ記念館の見学は終了です。 いやぁ。面白かったー。 次は、13時に阪神・尼崎センタープール駅前に再集合なので、一旦解散です。 お昼いきますか。 とりあえず、阪神・大物駅に戻っていきます。 途中、お話ししていると、次の集合の阪神・尼崎センタープール前駅までとりあえず移動しましょうかということに。 -11:25- 阪神・大物駅から電車に乗ります。 |
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大物駅に戻ってきた |
大物駅は、阪神本線と、阪神なんば線が合流する駅ですので、神戸方面に行くには2つのホームがあります。 どのホームがいいのか悩んでいたら、親切な地元の方が「2番ホームが早いよ」と教えてくれました。 尼崎市民、人情に厚いなぁ。 -11:40- 阪神・尼崎センタープール前で降ります。 乗車中に、「資さんうどん」に行こうと言う話になったそううです。 ついていくか。 てくてく歩いて、アマドゥへ。 わぁ。久しぶりに来たなぁ。 -11:45- 「資さんうどん」尼崎アマドゥ店にやってきました。 うわぁ。大混雑。 座席待ちの番号を取ってしばしまちます。 モニターに番号が出たら入店できますね。 |
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資さんうどん | 穴子天ざるうどんかぁ |
「資さんうどん」は、九州・小倉発祥のローカルうどんチェーン店です。 2015年(平成27年)に創業者の大西章資氏が退任後死去し、後継者がいなかったため投資ファンドが入りその後、昨年には、すかいらーくグループに入ったことにより急速に全国展開しています。 番号が呼ばれ入店しますが、QRコードを読ませても席案内が出ませんね。 ここでも親切な地元のおっちゃんが、システムの使い方とエラーが出た時はそこの店員さんに言うといいよということを教えてくださいました。 尼崎、ステキ。 ようやく席に着けました。 タブレットでの注文ですね。 看板メニューは肉ごぼう天うどんで、おはぎも見物メニューですが、穴子店ざるすどんにしよう(笑) 同席の菅組の菅社長と示し合わせて、小さいビールも飲むことに(笑) |
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わーい | 穴子天ざるうどん2玉 |
お昼時で混んでいるので、食べたらさっさと出ました。 さて、では13時の再集合に向けて、阪神・尼崎センタープル前駅に向かいますか。 -12:50- 阪神・尼崎センタープール前駅にやってきました。 |
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尼崎センタープール前駅 |
ここで1名来られるのですが、急遽キャンセルになった模様。 というわけで、当初はここからタクシー移動との予定でしたが、歩けなくもないよねってことで、てくてく歩いていきます。 |
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では行きましょうー |
-13:10- 旧大庄村役場、(現・尼崎市立大庄南生涯学習プラザ)にやってきました。 |
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おー |
とりあえず、参加者みんな外観見学を始めちゃいます。 |
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レリーフ | 渡り廊下・・・ではないな | エントランス |
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趣あります | これは・・・鳩? | 窓飾り |
その後、3階のホールに集合ってことですが、入り口と壁に資料があるので、ちょっとだけ見ていきました。 |
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資料コーナー | 解説1 | 解説2 |
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解説3 | 解説4 |
壁にもいろいろありましたが、ゆっくり読んでいる時間はないな。 |
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詳しい | 大庄村役場は当初村野藤吾ではなかった | そのいきさつ |
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建設の話 | 建物説明 | 特徴の説明 |
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レリーフとか | 鳩とグリフォンかぁ |
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入口の付属屋根が今と違うね | この時代は付属屋根がない |
3階のホールに集合しました。 午前に引き続き、桃谷さんにご説明いただきます。 |
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よろしくお願いしますー |
旧・大庄村は、1942年(昭和17年)に尼崎市に編入され消滅しましたが、村としては1869年(明治22年)の町村制の施行により成立しました。 当時は農村・漁村の村で、人口は約3,300人だったそうです。 当初は、現在の大庄小学校の南西角に木造平屋建の村役場を構えていました。 1929年(昭和4年)に浅野財閥が設立した尼崎築港株式会社により、南に広がるサツマ芋畑のさらに南の海岸の埋立事業が開始されます。 約10年間で150万m2を埋め立てる予定でしたが、1940年(昭和15年)までに、140万m2を埋め立てたそうです。 埋立地には大工場が進出し、尼崎市に編入される直前の人口は約48,000人になったそうです。 そこで、これまでの木造平屋の役場では手狭になり、村が新規に土地を取得、村に技師がいることが珍しい時代に、大庄村の建築技師福井裕氏が2階建新庁舎を設計しました。 しかし、1934年(昭和9年)の室戸台風により、5.1mの高潮に見舞われた大災害で、大庄村でも99人が死亡。新庁舎建設どころではなくなりました。 1936年(昭和11年)に災害復旧と復興が進んだため、復興のためにも新庁舎建設事業が再開されることとなりました。 その際、なぜ村野藤吾に設計を依頼したのかは定かではないそうですが、建築家・村野藤吾の設計により、地上3階・地下1階の鉄筋コンクリート造の庁舎が設計され、塔屋(タワー)も含めると、実質5階建ほどの高さとなっていました。 当時の建設費は16万円。その年の大庄村の歳出が32万円だったそうで、年の支出の半分を庁舎建設に使ったと言うことです。 すごいですねー。 しかし、埋立てにより大企業が進出、急速に都市化も進んでいて、「日本一裕福な村」「日本一の大村」と称されるまでに発展していたため、この年の歳入は69万円だったとのことで、歳出の半分をかけていても余裕だったようです。 道を隔てて、大庄小学校があります。 1938年(昭和13年)の大庄小学校の児童数はなんと3,300人!! 今でも児童数1,000人超えればマンモス校と言われますが、その3倍ですね。 なので、1939年(昭和14年)には第2小学校を、1940年(昭和15年)には第3小学校を次々と建設します。 役場に続き、学校も立て続けに建設するなど、いかに裕福であったかが伺えます。 村野藤吾は、1891年(明治24年)に佐賀県で生まれ、早稲田大学の建築学科で学んだ後、1918年(大正7年)に渡辺節建築事務所に入所します。 1929年(昭和4年)に事務所を退所し独立して村野建築事務所を開設しますが、独立前にヨーロッパの建築を見て回ったそうで、その後手掛けた初めての役所建築が大庄村役場だったということです。 村野藤吾の理想とする庁舎建築とは、スウェーデンのラグナル・エストベリ設計のストックホルム市庁舎だったそうです。 市民の集まれる大ホールが必要と言うことなのだそうですが、大庄村役場には残念ながらそれは再現できなかったのですが、その機能は中庭にあったとみられます。 旧大庄村役場をはじめ、村野藤吾建築はタイル張りですが、先ほどのユニチカ記念館で思い出しましたが、村野藤吾のレンガ積は、先ほどのユニチカ記念館とは違いフランス積みにこだわっています。それは、ラグナル・エストベリのレンガ積がフランス積だからと言われています。 以前見学した関西大学にもレンガ(というかコンクリートレンガですが)はフランス積でしたね。 旧大庄村役場は、見る方向で全く違う建物となっています。 タワーがついているのは、ヨーロッパ調です。 当時の日本の庁舎は真ん中にエントランスがあり、左右シンメトリーに事務スペースがあり、必ず階段を上がって庁舎に入ると言った、威厳のあるものでした。 見る方向で違うと言うことは、実際に新庁舎になって村民が入口に迷うと言うことがあったそうです。 この建物は、1937年(昭和12年)11月に竣工しました。 その後、1942年(昭和17年)には尼崎市に編入され、出張所や支所となり、1969年(昭和44年)に別の場所に支所ができたため一旦役割を終えます。 翌年1970年(昭和45年)より大庄公民館として今も使われています。 竣工後80年以上、地域に公開され続けているのは、村野藤吾の理想としたところだと言うことです。 階段を上がらず、フラットに入ることができ、今では貴賓室でも普通に貸室として使えます。 今、お話を聞いている、ホールとして使用しているこの部屋は、当初は村議会の議場でした。 耐震工事をした時に、耐震補強を隠すために新たに天井と壁を張りましたが、その裏は当時のままだそうです。 村野藤吾は、生涯で5件の庁舎建築を設計しています。 最初が1937年(昭和12年)のこの大庄村役場。 2番目は、1959年(昭和34年)の横浜市庁舎。こちらは高層棟がホテルとして転用、議会低層棟は解体されてありません。 3番目は、1962年(昭和37年)の尼崎市庁舎、4番目は1965年(昭和40年)の美原町(現・堺市美原区)庁舎。こちらは2011年(平成23年)に解体されました。 そして最後が1980年(昭和55年)のわが街、宝塚市庁舎です。 大庄村役場は中庭がその役目を担いますが、尼崎市庁舎も宝塚市庁舎も市民ホールがあります。村野藤吾の、庁舎は住民のためのものでなければならないという考えからだそうです。しかし、行政ニーズが増えてきていることもあり、宝塚市はパーテーションで区切り事務室に、尼崎市は本格的に壁と天井をつくり、事務室としてしまっています。 村野藤吾の図面は、村野事務所から京都工芸繊維大学に多くが寄付されています。 尼崎市庁舎は床面積で言えば横浜市庁舎よりも大きいとのこと。 尼崎市は、昭和20年代には古い校舎の転用で庁舎を確保していました。 しかし、いよいよそれでは対応できなくなり、橘公園の横の沼地を建設地に決め、設計コンペを行うことにしたそうです。 その審査委員に村野藤吾がいたとのこと。しかし、コンペは時間がかかるため、村野藤吾に随意契約でお願いしたとのことです。 京都工芸繊維大学に残る、尼崎市庁舎の完成予想パースは3点あります。 当初は高層棟は11階建でしたが、高さ制限に抵触したため9階建としました。それでもまだ抵触していたので階高を下げた9階建としたそうです。 では、内部を見て回ります。 まずは屋上へ。 |
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いい感じですねー | 人研ぎの壁 | さらに上へ |
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結構屋上に出るのは狭い | メンテ用なので簡素な仕上げ |
階段を上がっていき、屋上に出ます。 |
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塔屋 | 透かし彫りがあります | 木かな? |
お隣の、大庄小学校も趣ありますねー。 |
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外壁の意匠がいいです |
さらに塔屋へ。 透かし彫の飾りはオリーブだそうです。 そして、塔屋の天井はコンクリートですがいろいろと装飾されています。 空が見える穴があり、その周囲も装飾されています。 格子の模様は、模様であって、鉄筋金網が露筋しているのではないので構造としては大丈夫です。 実際、市議会議員から「補修する金もないのか」と質問されたことがあったとか。 |
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空が見える開口 | 星 | 月ですか? |
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開口部の中の金具に梯子掛けてさらに上がるらしい | 凹な星 | 凸な星 |
煉瓦が使われているところがありますが、これも烙印があり、岸和田の大阪窯業のものだそうです。 |
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刻印 | 煉瓦積 |
周辺はそう高い建物がないので、今でも見晴らしがいいです。 |
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額縁のように切り取った空 |
庁舎建築なので華美なことはできないが、できるだけデザインを変えて変化を見せています。 また、村野事務所では図面の使いまわしを結構していたそうで、大庄村役場の窓のデザインの一部は関西大学の岩崎記念館(1974年(昭和49年))に酷似しているところが見れるとは桃谷さんの見識です。 一気に降りて、中庭に出ます。 |
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細かいところの処理がいいです | 人研ぎの腰壁 | 上の手摺は後から |
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人研ぎきれいな仕上げ | こういう仕事ができる職人さんももういないかな |
レリーフがあり、動物がいますが、これはグリフォンですね。 ギリシャ神話で、鷲の頭とライオンの胴を持つ生きものです。 なぜにここに掲げられているのでしょうかね。 「力」「勇気」「守護」の象徴とされていることから、狛犬みたいなものだということでしょうか。 |
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少しずつ表情が違う | 2階と3階の窓のデザイン |
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塔屋がつく | 各階上場が違う |
西側に行きます。 西側に面する道は、緩くカーブしています。外壁も道に沿ってカーブするような形状です。 ところが、北の角にきて建物を見ると、まるで船のような形に見えます。 道路沿いの低い位置に窓もありますが、実はこの道は竣工当初は水路だったそうです。 |
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ゆるくアールを描く | 上から下までタイル | 塔屋 |
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多層な感じが強い | 道が水路だった頃の名残 | 確かにここから見たら船っぽい |
南側は一面壁と窓。デザインの躍動感とかはない、役場的な感じです。 |
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統一したデザイン | ところどころタイル補修している |
タイル補修って難しいんですよね。 既製品のタイルでも、同じ品番だとしても焼き具合で微妙に色が違うし。 そして、中庭に戻ります。 先ほど屋上の塔屋の透かし彫や1階外部で見たレリーフには、オリーブ、鳩、ブドウの木が描かれており、それってノアの方舟の話で、西側から見て船に見えるのもそうであって、これは大庄村の水害からの復興の意味が込められている。との桃谷さんの推測です。 |
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エントランス | オリーブと鳩 |
ポーチは丸柱で支えらえた形状ですが、当初は2本の柱の列柱で支えられていたそうです。 |
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なるほどね |
次に、地下室に入ります。 |
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村野藤吾建築見学会 |
地下室の明り取り窓がありました。 |
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これでも明かりが採れる |
では地下室へ進入です。 |
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普段は入れません | 階段いいねー |
地下に降りていく階段の壁の処理がいいです。 |
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柱と壁を曲線でつなぐ | それに合わせて階段もカーブ | ステキ |
地下室にやってきました。 |
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今は物置に | 外から見た明かり採り 結構明るい |
天井近くは換気扇らしい |
地下室は、当初は役場の食堂だったそうです。 |
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壁の中はレンガだぞ |
当時のタイルとかを見せてもらいました。 |
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左のがそうです |
明り採り、結構明るいです。 |
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真下から | 明るい | いいねー |
地下には石炭ボイラーがあり、それで全館暖房をしていた。石炭の搬入に使われたであろう縦のスペース(上から投入していた?)も残っています。 |
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ここに石炭が落ちてきた |
なんだか1968年(昭和43年)のメモ?がありましたよ。 |
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三寸丸太106本・・・ 何のかな |
3階へと上がります。 |
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いいねー | 細かいところがきれいです | 左官屋さん大変だっただろうなぁ |
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村野建築は階段が本当にいいですね | 最後の段 | 回り込む |
続いて2階へ。 |
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和室だ |
昔の図面上では事務室となっていましたね。 その奥の第1学習室へ。 |
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貴賓室です | 天井 | 床 |
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いですねー | デザイン | +−×−+ |
この第1学習室は、当初は貴賓室。歴代の大庄村村長の肖像が並んでいます。 貴賓室は、天井と壁は補修はしているもののオリジナルのまま、床も恐らくオリジナルであろうとのことです。 現在は第1学習室なので、普通に使用料を支払えば誰でも利用できます。 |
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パネルヒーターのデザイン | 2007年(平成19年)の新聞記事 |
3階へ上がります。 |
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階段室のガラスブロック窓 | 柱と壁を一体化させています |
3階は村議会場だったので石(人研ぎ)ですね。 |
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真鍮の見切りが入っています |
3階の和室は元は議員控室でした。 |
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入口 | 和室仕様 |
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天井 | 和室ですねー |
今はないが昔はちゃんと炉も切っていたそうです。 和室内の押し入れには屋上に上がる梯子があり、桃谷さんは実際に出てみたことがあったそうです。 |
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これね | おー | 網代編み痛んでいるなぁ |
最後に1階へに降ります。 耐震補強工事をした時、できるだけ耐震部材が目立たぬよう、図書コーナーの本棚裏であるとか、地盤が弱かったので窓下に基礎補強を入れてそれを低い本棚で隠したりと工夫したそうですよ。 ということで、旧大庄村役場終了です。 次は尼崎市役所に行きますが、結構距離があるのでタクシー分乗で行くことになりました。 代表して3台、Goアプリで呼びますよ。 -15:15- ほどなくしてタクシー到着です。 複数台呼んだのは初めてだったのですが、GoPayで設定していると、呼んだ人が全部払うことになるらしい・・・。3台分カードから落ちるのか・・・。 まぁ、皆さんで割り勘には最終なるのですけどね。 最後の1台に乗り込み移動です。 だいたい、タクシーは酔っぱらって電車なくなった時にしかほぼ乗らないので、運転手さんにGoアプリの処理についていろいろ教わったり(笑) さて、ナビは尼崎市役所の西側を示していますが、先の2台はどこに停まったのかな。 -15:30- 尼崎市役所に到着しました。 不明なので、とりあえず南側の道路沿いに停めてもらいます。 ありがとうございますー。 さて、皆さんいないですね。 南館沿いに東側を北上していくと、皆さん西側におられるとのこと。 今日は市役所閉まっているので、ぐるっと回らないとだめだなと思っていると、南館が開いていますね。マイナンバーの受付とかやっている関係の模様。 ということで、そこを通ってショートカット。 みなさんと合流しました。 「中、通れましたよ」と伝えると、当初は外観だけの見学の予定だったのですが、差しさわりない程度に中もご説明いただけることになりました。 |
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中館 | 南館 |
中館のそばでまずは見学。 3階の窓枠が特徴的です。 1階から延びる柱が3階の窓枠を串刺しするようなデザインですが、この柱は化粧柱で、実際の柱は内側にあります。 |
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妻側のベランダは意匠です | 人は出られませんよ | 串刺しの窓 |
前述しましたが、この中館は当初11階建で計画しましたが、高さ規制でNG、次に9階建としましたが、それでも高さが引っかかり、最終的には階高を下げてなんとか9階建におさめたそうです。 |
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いいねー | 下層と中・高層はデザインが違います |
ここからは見えませんが、塔屋があり、それが凸のような城を彷彿させるフォルムに見え、また周囲はドライエリアのようなお堀が設けられており、これは元々この地が沼地であったため、その水抜きも兼ねているそうですが、お城のお堀のようにもなっていて石垣のような石の積み方をしていて、城下町・尼崎のイメージをつくりだしています。 実際、元尼崎市理事の川野さんという方は、若い頃に市庁舎建設に携わっておられ、術職員として「堀をつくれば水漏れ対策など管理が大変になる」と考えていた川野さんは、建設前、村野藤吾に直接その心配を伝えたことがあるそうです。 村野藤吾は「尼崎には昔、琴浦城という海に浮かんだような美しい城があった。私はそのことも頭に入れてデッサンしたんだから、頑張ってやってみようじゃないか。」と言われたのだとか。 また、そのお堀で地階の採光を得るのに有利に使っています。 |
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お堀 | 地階 |
ちょっと中に入ってみましょう。 南館のマイナンバー関係をやっているところからということで移動します。 |
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形状が凝っています | いいねー | 型枠大工さんは大変だったろう |
窓の上部には竪型のルーバーがありますが、今は動かないようですし、どう動かすのかもよくわからないそうです。 |
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上にルーバー | いいですねー |
横から見ると、地階の様子がわかります。 |
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エアコン室外機が並ぶのがちょっと残念 | お堀を渡る橋も真っすぐではない |
では中に入りましょう。 |
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おじゃましますー |
1階の窓口のあたりが、大階段と共に2階までの吹き抜けとなっています。 この階段手摺は、関西大学第4学舎1号館と同じ形状ではないかというのは桃谷さんの弁。 2017年(平成29年)に耐震補強をしていますが、当初案では外壁に×の筋交いを入れるような設計だったようですが、建築学会からお叱りをもらったそうで、最終的には内壁に補強を入れ、それが見えないように木製のスリット壁を設置したそうです。 そこに付く照明器具は、桃谷さんが役所に入った若かりし頃は、吊り証明で良い雰囲気だったそうですが、今では壁付のLED照明で、時代の流れとは言え残念だそうです。 |
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窓口エリア | 2階天井が見える | 耐震補強隠し |
大階段はいいですねー。 |
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村野建築がわかる | いいねー | 階段 |
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手摺は違うらしいけど | 吹き抜けの上 |
マイナンバーの受付をされている後ろの壁は元はなくて市民ホールになっていたところのようですね。 |
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この壁 |
東側に出ます。 |
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カラスの行水 | このガラスは後からはめたそうです | 見上げる |
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元のガラスはもっと内部だったらしい | 地階を見る |
南館の屋根にある明り取り窓は、工場の屋根のようなギザギザ屋根をイメージしているそうで、工業都市・尼崎ならではですね。 尼崎市役所は、実は交通の便が非常に悪いです。 最寄り駅は、JR東海道本線・立花駅と尼崎駅の間くらい。立花駅のほうが近いですね。 これ、単に橘公園の隣に沼地があったというのではなく、当時の人口重心を立地の条件にしたとのこと。 市民誰もが同じように市役所に来れるという考えだそうです。 近隣で言えば、西宮市役所は阪神・西宮駅すぐですし、JR西宮駅からも近いですね。芦屋市役所も阪神・芦屋駅すぐ。 宝塚市役所は建替え前は、阪急・逆瀬川駅すぐでしたが、建て替わって今の村野建築になってからは阪急・逆瀬川駅からかなり遠くなりました。 伊丹市役所はR171に面していて、車で行くには便利ですが阪急・伊丹駅からは結構歩きます。 |
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中棟方面 | 議会棟のほう |
市長室は南館の3階にあるそうです。 |
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元は違うイメージだったかな | 複雑なデザイン |
村野藤吾は、建築だけでなく家具も多く手掛けていたそうで、京都工芸繊維大学に残る図面と照らし合わせて庁内を捜索すると、結構な数の家具が現存していたそうです。 それらを廃棄する際にはご連絡ください。引き取りますと桃谷さんがシールを貼って回ったそうです。 |
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お城のイメージ? | 塔屋があります |
隣接する橘公園には、太平洋戦争中の高射砲陣地があったそうです。 |
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橘公園 |
議会棟1982年(昭和57年)に増築され、亀甲型をしています。 |
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議会棟 | 中棟 |
北館は、1984年(昭和59年)に増築され、議会棟、北棟どちらも村野藤吾設計によるものです。 昭和50年代には既に村野藤吾は90歳代。それでも現場には見に来られていたとのことです。 |
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増築棟 |
議会棟との渡り廊下も、関西大学でほぼ同じものがあり、これも図面の有効利用をしているのだとか。 渡り廊下を支える柱でM字型のがありますが、元からM字型でしたが、これは耐震補強で作り直したものだそうです。 |
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渡り廊下 | M字型の柱 | 細かいデザイン |
北館は、元は駐車場だったそうです。 渡り廊下で北館、中館が繋がれていますが、高さが微妙に違うそうで、北館が微妙に高いらしい(笑) |
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北棟 | バルコニー | に鳩 |
渡り廊下は2階と6階で繋いでいます。 |
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渡り廊下 |
庁舎全体の面積は約32,000m2。 これは、横浜市庁舎よりも広いというのが誇れるところだそうです。 |
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端のフェンス?が面白い | 村野デザインかなぁ | バルコニー |
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これはお堀ではなくドライエリアかな | 面白いデザイン | いいねー |
-16:05- ということで見学終了です。 桃谷さん、ありがとうございましたー。 懇親会まで時間があるので、橘公園で休憩しましょうか。 |
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議会棟 | 中棟 | 橘公園から見た議会棟 |
太平洋戦争中の高射砲陣地跡で、今でも高さ約3mの円形の台座が2基残っています。 陸軍高射第三師団の99式8センチ高射砲が乗っていたそうですが、今ではなぜかライオン像が乗っています。 |
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ライオン | 台座です | 尼崎市役所 |
しかし橘公園、遊ぶ子供が多いですねー。 公園でこれだけ子供が遊ぶ姿は久しぶりに見たような。 自販機そばのベンチに座っていたりしてのですが、子供たちが寄ってきて、「旧札の1,000円ないですか」と聞いていました。 どうやら、新札は自販機が読み取ってくれないそうです。 というわけで、前田さんが替えてあげて、子供たちもジュースを買うことができました。 懇親会の「鶏のれん食堂」には17時からとのことですが、ネットで見ると店自体は昼休憩なく通しで空いていますね。 ちょっとくらい早く言っても大丈夫かなということで、移動します。 |
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駐輪場の屋根に草が生えています | 草屋根だね(笑) |
てくてく歩いて5分ほど。 -16:45- 「鶏のれん食堂」にやってきました。 |
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とんちゃんの看板 |
店構えとしては、鶏精肉店ですが、奥に飲食スぺ―スがありますね。 通しで営業しているので入れてもらえるかと思ったら、17時まで待ってほしいとのこと。 |
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鶏のれん食堂さん | 精肉とお弁当 |
しばらくして入れました。 ことらのご店主、元々百貨店の催事担当のバイヤーで全国の美味しいものと出会ってきた中で、香川県で食べたブロイラーの親鳥である「種鶏」の美味しさに衝撃を受けこの鶏肉を提供するお店を出したいと2023年にオープンされたそうです。 また、滋賀県高島の味付けかしわのルーツである「とんちゃん」の看板が出ていますが、滋賀県以外でとんちゃんが食べられるのはこちらだけだそうです。 本日は、3時間飲み放題、食べ放題ということだそうです。 焼肉スタイルの焼鳥ですね。 では、前田さんの乾杯の発声により懇親会スタートです。 |
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かんぱーい |
飲み物は基本瓶で来て、店主曰く「昭和の栓抜き」でセルフで抜きます。 |
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焼肉スタイルの焼鳥 |
まずは前菜ものとか。 |
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突き出し3種 | 肉豆腐 |
種鶏や奥丹波どりなど、鶏の種類もいろいろ。 奥丹波鶏は、奥丹波地方(舞鶴若狭道・春日ICあたりの奥のほう)で純天然飼料で育てられ鶏肉特有の臭みが少ないというものです。 |
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種鶏(しゅけい) | 焼きます |
いろいろ言われますが、その時は「おおー」って思うのですけどね(笑) でも、今見ると、これなんだったかなーというのが・・・。 |
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美味しいですよー | 砂肝とかも出る |
瓶ビールは当然栓を抜きますが、ハイボールはコップに氷とウイスキーが入り、レモンが別皿で来て、箕面炭酸水って瓶が来るので栓抜いて完成します。 |
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蘭王かぁ |
そして、食べ放題なので、ストップかけない限り、どんどん出てきます。 |
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唐揚げ | レバーとか | 野菜も食べないと |
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サービスってエビも出ましたよ(笑) | 唐揚げ |
蘭王って大分県産の卵にとんちゃんをつけて食べると美味しいそうです。 |
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蘭王です | おー |
とんちゃんも出てきますよ。 ちなみにとんちゃん、岐阜へ行けば、けいちゃんになるそうです。 |
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とんちゃん | 焼きます | さらにとんちゃん |
多分、とんちゃんは種鶏のと奥丹波鶏とのだな。 最後は、蘭王が残ったので、半ライスで玉子かけご飯。 |
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TKG |
デザートにアイスをいただきました。 ドリンクラストオーダーは、一人だけアルコール類飲んじゃいましたけど。(皆さんはアイスとあわせてソフトドリンクでした) |
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ハイボールとアイス |
ということで終了。 帰りますか。 最寄り駅はJR立花駅ですが、そこから阪急・小林駅に行こうとすると・・・ ・JR西宮駅まで乗って下車、阪急・阪神国道駅まで10分ほど歩いて阪急で帰る。 ・JR尼崎駅で乗り換えてJR宝塚駅へ。そこから阪急に乗り換えて帰る。 と結構面倒。 そこで、阪神バスに乗って、阪急・武庫之荘駅まで行って帰ることにしました。 |
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鶏のれん食堂さんでした | バス乗る |
ほとんどの方はJR立花駅まで歩いて行かれたので、阪急沿線の前田さんと二人で帰ります。 -20:25- バスがやってきました。 こちらの路線は、元は尼崎市交通局が運航していた路線で、現在は阪神バスが引き継いでいます。 尼崎市交通局の乗降方式は、前乗り先払い・後降りだったのでそれを引継ぎICカードは乗車時のみタッチです。 阪神バスの後乗り・前降り後払いとは違うので一瞬迷いました。 -20:40- 阪急・武庫之荘駅から電車です。 |
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武庫之荘ー |
阪急・西宮北口駅で乗り換えます。 -21:05- 阪急・小林駅で降ります。 てくてく歩いて帰宅しました。 建築家・村野藤吾は宝塚市清荒神に住んでいたこともあり、阪神間にも割と建築が残っていますね。 地元・宝塚市にも、カトリック宝塚教会、宝塚市役所庁舎なんてのもあります。 村野藤吾没後40年が過ぎ、コンクリート建築の寿命が一般的に50〜70年程度という中で、村野建築も老朽化により取り壊されるものが多くなってきています。 村野藤吾の考えとして「経済的配慮をあまり必要としないが、100年の寿命と表現に狂いのないことが望まれるの である。そこで、このような寿命に耐えてなお、足りるような表現手段といえば、これまでもそうだが石以外にはないと思う。」と言っており、100年の寿命は明確に打ち出していたようです。 村野建築が無くなっていくことは残念ですが、関西大学で村野藤吾とお話しされた方によると「無理に残さず、100年たったらさっさと解体しちゃえばいいんだよ」的なことを話されていたのだとか。 それこそ、明確に100年の寿命を打ち出したことへの回答だったのかもしれませんね。 |
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